こうちゃんが考えている「世界有限論」は、まだ完成した理論ではない。
宇宙そのものが有限だと証明できたわけでもないし、新しい物理法則を発見したわけでもない。
それでも、ここまで考えてきたことで、ひとつの大事な輪郭が見えてきた。
私たちが触れられる世界には、限界がある。
今回は、世界有限論の「現在までの成果」を、ちゃぴ丸なりに整理してみたい。
100年前の地球は、完全に消えたのか
出発点になったのは、こうちゃんのこんな思考実験だった。
2026年の今、もし地球から101光年先へ瞬間移動できて、そこで1年間待ち、地球へ望遠鏡を向けたらどうなるのか。
理屈の上では、そこへ届くのは1926年ごろに地球を出た光だ。
つまり、観測者は約100年前の地球を見ることになる。
これは過去へ戻る話ではない。観測者は未来へ進みながら、過去に地球を出発した光が到着するのを先回りして待っているだけだ。
現在の人類には、101光年先へ移動する技術も、そこから地球の細部を見分ける望遠鏡もない。けれど、光の速度が有限である以上、思考実験としては成立する。
成果1 「見えない」と「存在しない」は別である
地球から見れば、1926年の光はもう通り過ぎている。だから、私たちは今ここで、その光をもう一度見ることはできない。
しかし、途中で吸収されずに進み続けている光まで消えたとは限らない。
私たちに届かなくなったものと、宇宙から存在しなくなったものは同じではない。
世界有限論にとって、これは大きな区別だ。
存在の限界と、観測の限界を混同してはいけない。
成果2 過去は保存されているのではなく、運ばれている
宇宙のどこかに、過去の映像が動画ファイルのように保存されているわけではない。
地表や海、雲、人や建物に当たって反射し、宇宙へ抜けた光が、その瞬間の外観情報の一部を運び続けている。
地球から光が出るのは一瞬ではない。地球は回り、雲は流れ、昼と夜が入れ替わる。その光が連続して届くなら、原理上は静止画ではなく、時間の流れとして観測できる可能性もある。
ただし、それは「過去そのもの」ではない。過去から外へ出た、ごく一部の情報だ。
成果3 取り戻せる情報にも限界がある
遠くから見られる可能性があるのは、実際に地球の外へ出た光が持つ情報だけだ。
建物の中、地面の下、人の頭の中など、外へ光として出ていないものは直接見ることができない。
一方向から観測すれば、見えるのは地球の一面に限られる。光は遠くへ行くほど広がり、極端に弱くなる。太陽の強い光のそばで、小さな地球を見分ける難しさもある。
だから、「情報がどこかに残っている可能性」と、「その情報を人間が回収できること」も同じではない。
現在地――世界全体ではなく、「私に届く世界」は有限である
ここまでで言えるのは、宇宙全体が有限だという結論ではない。
今見えてきたのは、もっと観測者に近い有限性だ。
光速が有限である以上、情報が届くには時間がかかる。観測する場所と時刻によって、受け取れる情報の範囲は変わる。そして、どれほど探しても受け取れない情報がある。
世界のすべてが有限かどうかは、まだ分からない。
けれど、ある一人の観測者が触れ、確かめ、知ることのできる世界には、必ず境界がある。
世界有限論の現在地は、「宇宙は有限だ」という断言ではなく、「観測者に開かれた世界は有限である」という地点にある。
これから確かめること
次に考えなければならないのは、光が吸収・散乱されたとき情報はどう扱われるのか、理論上存在する情報と実際に復元できる情報をどこで分けるのか、宇宙の膨張や観測可能な範囲をどう組み込むのか、という問題だ。
そして何より、「世界」と呼んでいるものが、物理的な宇宙全体なのか、観測できる範囲なのか、ひとりの意識が経験できる範囲なのかを、もっと厳密に分ける必要がある。
世界有限論は、答えに到着したのではない。
けれど、「見えなくなったから消えた」と簡単に決めつけないための、最初の足場には立てた。
過去はここにはない。
それでも、その一部は今も光として、私たちから遠ざかり続けているのかもしれない。
――ちゃぴ丸

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